序章 この国際体験記の背景なるもの
真っ黒な瞳がふたつ、やさしい雰囲気をもって私の方を見ていた。年のころ四十。黒人男性。貫禄のある歳のとり方をした顔と幼さを残した目のアンバランスが印象的だった。コンクリートブロックでかためられた殺風景な小屋の中で、開け放たれた窓から入るそよ風が我々の頬を心地よくなでていた。外では、時にして強すぎるアフリカの太陽が地面を照りつけており、涼しさと静けさ保ったその小屋の中だけが別世界に属しているかのようだった。
場所はザンビアのコンゴ国境近くにある難民キャンプの中。私はある日系援助団体より難民支援のためのプロジェクトマネージャーとして現地へ派遣されていた。現地スタッフを新規に雇う必要があり、応募を募り面接を行っているところだった。彼はその最初の応募者だった。一通りの質問が終わり、最後に「難民に今もっとも必要なことは何だと思いますか?」という質問をした。今考えてみるとなぜ自分でこんな奇妙な質問をしたのか分からない。彼自身ここに2年前に逃げてきた難民である。難民の生活上の問題については十分に理解しているのは当然として、彼自身その苦しみのなかで今まで生きぬいて来た人である。そんな彼に対し、その当時赴任してまだ半年も経ってない外国人の私が、難民の問題についてテストするなんて主客転倒もいいところだろう。
また言うまでもなく彼等難民は貧窮に喘いでいる。農業・保健・教育など基礎的な社会基盤のどれをとっても十分ではないことは厳然たる事実であり、それを話し始めたらとても一時間や二時間では足りないだろう。重要な問題が多すぎて、「どれが必要か?」というのは問題ではなく「どうやって解決するか」という方法論が必要なのだ。難民キャンプでの問題は多角的に捉えてかつ解決していかなければいけないのであり、そのために彼は雇われようとしているのだ。どの問題が一番重要かではなく、それらをどうやって解決していくか聞くのが適当だっただろうし、それこそが我々援助団体に求められているのだ。そんななぞなぞみたいな質問に対し、彼は全然戸惑った様子をみせなかった。彼の瞳はやさしいまま私を包んでおり、ゆっくり、しかし自信を持って言った。
「難民に必要なのは夢です。」
この彼の一言はずっと気になっている。彼は今難民に一番必要なのは食料でもなく、教育でもなく、医薬品でもなく、夢だと言った。人間という生き物はまず飯を望むもので、毎日腹いっぱい食えない人間は夢という形而上学的なものは感じられないし、また重要でないと思っていた。彼等は、まず毎日の飯が重要であり、きちんと薬の在庫がある病院が近くにあることを望んでおり、破れてない服を着たいと思っているはずだと思っていた。なのに、彼のこの一言がずっと気になっているというのは、貧しい人々にとっても、少なくとも一部の人々にとっては形而上的な何かが重要になり得ると思いはじめているからである。その形而上的な何かが夢であっても全然おかしくない。
彼はその後、我々の援助団体に雇われ現地スタッフのリーダーとして活躍していくことになる。
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一九九七年冬。私は三ヶ月くらいかけて地中海沿岸諸国とアジア数カ国を旅行していた。旅行といってもバックパッカーなので計画もざっくばらん、ホテルも行き当たりばったりで安宿を探していた。一人で旅しているとその気楽さや、自由を呼吸することになれてしまい旅先で仲間を作って一緒に旅行することにおっくうになっていた。しかし、カイロの安宿にコウジという妙に気の合う旅行者がいた。別にこれといって特徴のある男ではないのだが、彼がピラミッドの頂上まで登った話が面白かったりしてお互いの旅の話で盛り上がった。結局彼一緒にルクソールを旅することになった。
ルクソールは、首都カイロから夜行列車で一晩かけていく必要がある。朝ルクソールに着くともう現地では庶民の生活が始まっていた。ロバに引かれた大八車が行き交い、雑貨屋の店主が忙しそうに店を開いていた。街の規模はカイロに比べるとかなり小さいく、路上では野菜や家畜の糞のにおいが交じり合っていた。カイロでは観光客と見ると物を売りつけようとする商魂たくましいアラブ人達も、ここではゆっくり流れる時に身をまかせているかのようだった。
ここはカイロと同じくらいに古代遺跡が残っている町でツタンカーメンが発見された王家の谷はこの町の近くにある。当然我々もそこへ行きたいのだが、何せ田舎町である、タクシーしか交通手段がない。当然金がかかり、予算と相談しながら旅行している我々にとっては無駄な出費になってしまう。いろいろ相談した結果、レンタル自転車を借りて遺跡をまわることにした。ホテルにチェックインして、さっそく自転車を借り、ツーリストオフィスで地図を入手し、王家の谷に向かった。ルクソールのナイル川沿いは畑に囲まれており、そこには吸い込まれるほどに深い緑の作物が人の背丈ほど成長していた。砂漠地帯である中南部エジプトでそれほどの緑に囲まれることはめずらしく、新鮮さを保った空気が肺を満たした。
その田園地帯を過ぎるとあとは乾燥した砂漠が続き、一応舗装はされているものの、人気のない道をひたすら二人でペダルを踏みつづけた。自転車はオンボロで、頭上では太陽が照りつけていた。遮蔽物のない広大な乾燥地帯を自転車で行くと、こいでもこいでも前に進んでいる様に感じられない。それでも周りの景色を楽しみながらのんびりとペダルを踏みつづけると王家の谷が近づいてきた。そしてあることに気が付いた。道は大きな丘に突き当たり、王家の谷へ行くにはその丘を迂回しなければならず、もうすでに2時間近く自転車をこいでいる我々にとってはたいそうな距離に思われた。我々は自転車を止めて、話し合った。王家の谷の正式な入り口にいくと遠回りする必要があるだけでなく入場料をとられる。目の前には大きな丘が連なり、その向こう側に王家の谷があるのかと思うと、そこをつきっきるのが近いという動物的な直情に身をゆだねるのが自然に思われた。入場料は払わず、もぐりで入ることになるが、逆にその事が異国の地で冒険をやっているように感じられた。
我々は自転車を置いて、丘を登り始めた。残してきた自転車が盗まれるかもしれないという事は全く考えなかった。真昼だというのに気味の悪いほどの静けさで、我々の足が地面を踏みつける音だけが異様に大きく聞こえた。遠くからはそんなに急には見えなかった傾斜も登り始めるとちょっとした登山のようである。首筋からは汗が流れ落ち、体温の上昇と共に太陽の光も熱くなっていくように感じられた。
人間というものは疲れてくると、頭が自然に下がってくるらしい。私は高校時代に運動部に所属していたが、走りこみをやって皆へばってくると先輩が必ず「頭をあげろ」とどなりつけていたのを思い出す。この時も例外でなかった。丘をのぼった時間はそんなに長くはなかったが、急な登りの連続を一歩一歩踏みしめるように登っていると、自然と足もとだけを見ながら足を動かすようになっていた。
頂上に着いた時だ。ふと顔をあげると、びっくりした。それまで全然気がつかなかったが、目の前に男が突っ立っている。気持ちのいいほど日焼けした顔に、しわが刻み込まれている。年は五十くらいだろう。最初は遺跡に不法侵入を防ぐための警備員かと思って少し動揺した。彼は埃まみれた服を着ていて、とても警備員の風情ではないが、発展途上国ではその辺のおじさんを警備員として雇うことはよくある。インドの友人の家を訪れた時は一応警官の制服に似た制服を着た警備員がいたが、彼はなんの訓練もうけてない気のよさそうな普通のおじさんだった。前述の難民キャンプにいたときは我々も警備員を雇っていたが、もう孫がいるおじいちゃんだった上、夜は居眠りしてしまうようなとても頼りになる警備員ではなかった。そういう事を考えると、一見だらしなく見える彼が警備員であっても全然おかしくない。
しかしながら、目の前のおじさんは遺跡警備員ではなかった。彼は私の動揺にまったく気が付かず、顔には満面の笑みをうかべ明るい口調で言った。
「コカ・コーラ?」
ふしくれだった手にはクーラーボックスで冷やされたコーラのビンが握られていた。汗だくだった私達は喜んで買い、彼は当然のごとく通常より上乗せした価格で私達から利益をさらっていった。後ろを振り返るとルクソールの市街地と深緑の畑が茶色い砂漠の大地と交じり合っており、心が休まるような景色が広がっていた。
このときほど新鮮でかつうれしい驚きを覚えた事はそうない。世の中のどんな分厚い経済学の教科書や論文をもってしても、彼のこの行動よりも資本主義の本質を表すことはできないだろう。田舎町のそのまた郊外と言ってもいいほど人気のない所で、もぐりの遺跡侵入者を待ってコーラを売ろうとする彼の行動はそのまま資本主義のお手本である。ひるがえって、同じような事を共産主義や社会主義の社会でやろうとすると、中央政府の役人がルクソールの遺跡に丘を登って入る観光客の数のみならず、その人達が流す汗の量をもとに喉の乾き具合まで計算しなければいけなくなり、それはまったくもって不可能である。資本主義の基本概念は「みんな自分のために経済活動(=商売や仕事)をやる」ということであり、それをそのまま実行して金持ち観光客(当然我々のような貧乏旅行者も含む)から利益をあげているのがこのおじさんだったが頼もしかった。人間のしぶとさが光っていた。
筆者は福岡県の久留米市というところで生まれた。人口は二十万強。別になんの特色もない日本の中小都市である。筑後川の下流に位置し、春になると堤防に咲く菜の花が美しかった。十八までそこですごしたが、高校卒業と同時に渡米した。大学に行くためだが、ある意味これが私の人生の大きな転機だった。最初は、英語を喋れるようになって国際ビジネスマンになろう、などという軽薄な夢を持ってアメリカの大学に入学したのだが、実際に住み始めるといろんな事を学んだ。今振り返るとアメリカで考えた事や感じた事は恥ずかしいくらいに未熟な事が多いのだが、重要なことは日本を離れ別の視点から物事を見る癖がついたということだろう。この留学経験が私の人生に翼をもたらし世界を自由に飛び回ることを可能にした。
大学卒業後は日本に戻り、東京で働き始めた。ITバブル最盛期のソフトウエアの会社で面白いくらいに景気が良かった。二年半働いた。それなりに楽しく、それなりに学ぶことも多かったのだが、そのまま人生をまっすぐ歩んでゆくのに疑問が感じられたのも事実だ。一生に一度の人生、後悔の無いように生きたい。自由に生きたい。そして私にとって後悔のない人生というのは世界を見て周ることだった。自分が生まれてきたこの世の中がどんな世界なのか見てみたい。この地球上にはどんなにんげん達が住んでいるのか知りたい。どんな社会システムのなかで人々が生きているのか知りたい。彼等が何を考え何を感じているのか知りたい。にんげんという生き物を知りたい。
そのために選んだやり方はボランティアに応募する事だった。現地の人と腰をすえて接する事ができ、費用もあまりかからない。私は援助団体の海外ボランティアに応募し、いくつか面接も受けた。最初からアフリカで活動をやっている団体にしか応募しなかった。世界で一番貧しく、日本からは一番遠い大陸。そこで日本人やアメリカ人とは全く違う文化と人を見てみたいと思っていた。ある団体で採用が決まり、二ヵ月後にはザンビア行きの飛行機に乗っていた。会社からは7万円の退職金をもらった。
この稿は別に、難民やエジプトについて書こうとしているわけではない。援助団体の活躍や遺跡についてでもないし、私小説でもない。明確な主題というものは存在しないかもしれない。強いて言うなら、にんげんという生き物について感じたこと・経験したことを書き連ねてみたいと思っている。そして一つ一つの出来事や登場人物が世界という大きな絵の描写に詳細さを加える事ができれば幸いだと感じている。にんげんへの好奇心と感受性を大切にしたこの物語はアフリカから始まる。
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