第二章 チリ共和国
孤児達に手をつながれて考えたこと
私がそういう物の見方をするようになった一つの理由は当時やっていたボランティアのためである。私はチリに住み始めて半年くらいたった時にボランティアを探し始めた。インターネットの時代というのは便利なもので、適当な団体を見つけるまで時間はかからなかった。その団体はサンチアゴの孤児院に対して児童支援をしていた。しかし正確にいうと子供達の大半は孤児ではなかった。親はいるのだが、両親からの十分な養育を受けられない子供が半分捨てられたような形で孤児院に預けられていたのが大半だった(よって彼等は正確な意味での孤児ではないし、その施設は孤児院ではないのだが、他に適当な言葉が見つからないため以下孤児・孤児院という言葉を使い続ける)。実の親が離婚した場合、通常母親が子供を引き取るわけだが彼女が再婚すると子供は義理の父の下で養育される事になる。そういう状況で新しい子供が生まれたりすると義理の親は義理の子を粗雑に扱いがちになり関係が険悪になる。そういうのは古今東西同じであるらしくチリも例外ではなかった。特に貧しい家庭でそうなった場合は険悪の度合いが激しくなりがちなのだろう。なおざりにされた子供はひどい場合には少ないお金を節約するために孤児院に送られるというのは容易に想像できる。実際その孤児院にいた子供の大半が経済的に恵まれてない家庭から来ていた。
ボランティアの内容はたいした事なく毎週週末にその孤児院へ行って子供達と遊ぶだけである。ボランティアの数は週によって違うが大体十人から十五人くらい。それを三つくらいのグループに分けて、それぞれが年少(五歳から八歳くらい)年中(八歳くらいから十三歳くらい)年長(十三歳以上)のグループを担当していた。私は年少グループの担当になった。
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孤児達は私の事を「チニート」と呼んでいた。スペイン語でチノとは中国人の事で、スペイン語独特のデミニュティボ(縮小辞)で語形変化させるとチニートとなり親しみを込めた言葉になる。彼等にとって日本人と中国人の区別はつかず東洋人は全てチニートになってしまうのだろう。一部の子供が「竜二は中国人じゃなくて日本人だよ」とがんばって訂正していたにもかかわらず私のあだ名はチニートで落着いてしまった。
その孤児院から歩いて五分くらいのところに公園があった。ブランコや滑り台など子供が遊ぶような器具がおいてあり、広場もあり、疲れたら寝転べるような芝生もあるというどこにでも見られるような普通の公園である。よくそこへ行って子供達と遊んだ。子供というものはどんな状況でも自分達の遊びというものを開発するもので、平均台の上で陣取りゲームのような遊びや、パンクした空気の入ってないボールでミニサッカーをやったりして遊んだ。ある時はサンチアゴの中心地にある大きな公園に行ったり、またある時は別の公園に行ったりしたが、子供と遊ぶという内容は変わらなかった。
最初はこういった活動に不満だった。私はアフリカでは大勢の現地人従業員を率いてプロジェクトを推進していた。間接的にとはいえ人の生死を扱うような活動をしていたという自負もあり、もうちょっとレベルの高いプロフェッショナルな活動をしたかった。義理の親に子供の面倒を見る重要性を説いてまわるような啓蒙活動でもいいし、精神的に不安定な子供のカウンセリングを準備してもいい。ただもっと直接的で問題解決につながるような活動をしたかった。目の前にある問題を分析し、その原因を解決するような活動をするべきだと思っていた。ちょっと正義ぶった人間だったら当然のように行きつく結論だっただろう。
しかし面白い事に子供達と接するにつれて、少しずつ自分の考えが変わっていった。直接的な活動は重要かもしれないが、それのみが必要とされているわけではないという事をすこしずつ理解し始めた。アフリカ時代は年間約一千万円分の予算(一千万円というと大きい額ではないが、現地の物価レベルでいうと結構な価値がある)を任されて活動をやっていたが、チリで孤児達と遊ぶ方が他人に自分を必要とされているという事を実感できるのである。
私は大学時代から心理学に興味があった。選択科目は出来る限り心理学系のクラスを選択していたし、教科書は授業には必要なくても隅から隅まで読んでいた。心理学というのはある意味人間の本質を掴み取る学問であると言う事が出来るし、時々あっと驚くような事実にぶつかる時がある。アメリカにハーロウ(H.F. Harlow)という二十世紀の心理学者がいた。彼はサルの実験を通じて人間行動の理解につなげようとした人で、彼の主な研究の殆どがサルの実験をもとにしている。彼の有名な人形母親の実験は入門レベルの教科書に載るくらい重要なものであるが、実験内容そのものはいたってシンプルである。生まれたばかりのサルの赤ちゃんを母親から離して一匹だけで檻の中に入れる。檻のなかには母親に似せた人形が二体置いてあるが、一つは骨組みに針金を巻いただけの物でもう一つはぬいぐるみのようにふさふさした布を張ってある。針金人形の方には哺乳瓶を括り付けミルクが飲めるようにしてあったのだが、それにもかかわらず赤ちゃんザルはふさふさした方の人形にじっとしがみついている事が多かったという。これは赤ん坊の安心と快感を感じる事の重要性を示しているとも言えるし、母親の愛情を感じる事の重要性を表しているとも解釈できる。
毎週、孤児院に着くとすぐに子供達が走り寄って来る。走り寄って来た子供は必ず抱擁するのだが、抱擁がおわると子供は私の腰にしがみついたまま放れない。公園に遊びに行く時は一緒に歩いていくわけだが、腰に手を回している子供が左右に二人、そしてそのむこうに手を回して一緒に手をつないで歩く子供がさらに二人、全部で四人の子供と一緒に歩く事になる。多少古くなった洋服を着ている以外は普通の子供達と全く変わらない彼等だが、いったん我々の手を握ると離したがらなかった。最初は南米の子供はだれでもスキンシップを取りたがるのかなと思ったり、彼等の文化かもしれないと思ったりもした。しかし彼等の生活を考えてみるとそうではないという事はすぐ分かる。
その孤児院には全部で百人を越す子供達が生活していただろう。それを世話する職員は数人しかおらず、彼等は食事などの世話で精一杯で、とても子供一人一人と個人的な話をする時間などない。日本の孤児院も同じだろう。私が小学生のころ同級に父親しかいない友達がいたが、ある日その父親が蒸発してしまい彼はお姉ちゃんと一緒に施設に引き取られていった。仲のいい友達と一緒にその施設に遊びに行ったことがある。子供達がいっぱい住んでおり、建物こそ近代的だったがとてもそこの職員が親代わりになっている様な雰囲気はなかった。日本でもチリでも孤児達の生活は学校から帰って来たら食事をして、後は他の子供達と遊ぶか宿題をして寝るだけである。毎日食事が出来、学校に通い、夜になると凍えずに眠れるベッドがあるという意味では彼等の生活は物質的には最低限満たされているといえるだろう。しかし彼等の生活には愛情がないし人間味がない。彼等にとって地球上で自分の将来を心配している人間は存在しないに等しい。寂しいとき泣くのも一人だし、甘える相手もいないし、人の肌が恋しくなった時に手を握る人もいない。そういう事を考えると彼等がしがみついている自分の手が張りぼての母親サルのように感じられた。彼等の喜んだ笑顔が逆に悲しかった。
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