第二章 チリ共和国
チリの孤児、アフリカ難民、夢、そして本当の弱者とは
このチリの孤児の話は冒頭に書いたメヘバである難民が言った言葉と繋がっている。彼は「難民に必要なのは夢です」と言った。当時は彼の言葉に今ひとつ共感を抱けなかったが、チリの孤児と接するようになってだんだんと彼の言葉の重みを感じるようになってきた。私の手を握り締めることによって必死に自分の存在を確かめようとしている彼等を見ていると愛情や夢といった精神的欲求も生理的欲求と同じくらい基本的で重要な欲求だと感じる。物質的にはチリの孤児の方がアフリカの難民より満たされているのは間違いない。質はさておき毎日の食事は食べられるし、近代的でないにしても雨漏りもせず隙間風の通らない建物で寝起きできる。着る物だって難民よりずっと良い物を着ているし、病気になったらすぐ近くに公立病院がある。
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しかし精神的な面ではアフリカの難民の方が幸せだろう。大家族制の社会に生まれる彼等は、両親はもとより叔父や叔母からも可愛がってもらいながら育つ。大人になったらたくさん子供を産みにぎやかな家庭を育む。日々の食事さえままならない事がある彼等にとって一番重要なのが夢であるかと言うとそうは思わないし、ましてや私が働いていたような援助団体が難民の夢という事に対して援助をするべきでもないと思う。やはり援助団体は食料・水や保健や教育といったもっと基礎的なことに援助内容を集中するべきであるからだ。ただ、難民だろうと孤児だろうと人間である限り彼等の内面まで考える必要があるし、例え腹をすかしている子供がいたとしても食べ物を与えるだけでは彼が幸せになったとは言えない。
そして孤児や貧困層という視点から眺めるとチリの学生運動も別な面が見えてくる。チリの学生は政府に対して奨学金の増額を求めていた。授業は数週間止まったが、彼等は真面目な気持ちで活動していたし、多いときにはほぼ毎日ミーティングを開き、政府の対応・活動の現状・他の大学の活動状況・今後の方針等について話し合っていた。若い彼等が団結して現状を改善しようと活動しているのは部外者である私から見ても清々しかった。しかし彼等の真摯な活動に反して、その主張・活動目的と言うのを聞けば聞くほど他の政治圧力団体と変わらないという感じをうけたのも事実だ。学生達の主張というのは、政府は中流・下層階級の大学生に対して奨学金(貸与ではなく給与)を増やすべきだというものだった。しかしこれは日本の土木業界が公共事業を増やせというのと同じだし、アメリカのガンロビーが銃の所有は個人の自由だと主張するのと同じである。未来を担う学生の支援も、国のインフラを整える事も、または個人の銃所有の自由を尊重することも、その論理自体は非の打ち所が無いほどに正しい。しかし、公共事業のやりすぎで誰も使わない山奥の橋や赤字の高速道路が増えたり、銃の氾濫で凶悪犯罪や暴発による事故死が増えるといった否定的な面も考えないと社会というのは良くならない。圧力団体・利益団体というのはある意味民主主義の一部といえるくらい現代社会の主要な一部なのだが所詮彼らは自分たちの見解と利益を代表しているだけであり、社会全体を見渡した発言をすることはほとんどない。
学生が働ける環境が整ってないチリで下層階級の学生に対して奨学金を与えるというのは一見受け入れられやすい意見でもある。しかし、どんな社会にも優先順位がある。貧困層の子供達は道路で信号待ちをしている車のフロントガラスを拭いて小遣い銭を稼ぎ、空腹を紛らわすためにシンナーを吸う。当然教育は受けておらず大学で勉強するなど、夢のまた夢である。恵まれない孤児も最低限の教育をうけたら社会に出されるし、その後は一人で生きていくしかない。大学生に奨学金を給与する予算があるのなら、政府はバスで物売りをしている子供達が小学校に行けるように援助するべきであろうし、孤児や貧困層でも高校や大学にいけるようなシステムをつくるべきだろう。学生運動というのはそういった社会の一面を考えておらず、そういった意味では他の利益団体と変わるところはない。しかしながら学生達の活動は当然のごとくマスコミの注目を集め、かといって孤児の現状などを伝える報道はゼロに等しいわけである。そういう所を目の当たりにすると本当の弱者の声を聞くという事の難しさを感じさせられた。
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