第五章 エクアドール共和国
アマゾンでみた神秘の光景
そうしている間にも宴会は進んでいた。その村には電気が来てないので隣村から発電機を借りてきて大きなスピーカーで音楽を流し始め、夕方になると現地の音楽に合わせたディスコのようになった。そのうち日が暮れて他のボランティアは帰り始めたが、私はまだ元気があり彼等の宴会を最後まで見たかったので残る事にした。ゲストである外国人が私一人になると彼等も遠慮がなくなったのか、それまでは現地人で踊る人は少なかったのにだんだんと増えてきて音楽も一段と現地風になった。
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農村社会などの小さいコミュニティーに生まれ育つ事については様々な長所や短所がある。家族や友達の絆に包まれながら一生を過ごせるというのは素晴らしい点だろう。しかしこれは両刃の剣であり、気に入らない友達や喧嘩した知人が同じ村にいても彼等と一生同じ社会で生きていかなければならない。これが先進国であれば、そして発展途上国でも都市部であれば、時が経つにつれて友達が変わるというのは良くある事だし、気に入らない友達とは会わなければいい。しかし小さな農村社会では生まれ育ったコミュニティーを出るというのはあまりないし、そこで生活する限り嫌いな奴とも顔を会わせなければならない。例えそいつが自分の父親を殺した奴であっても。
酔いがまわったのか、そのうち彼は喧嘩を始めた。その相手が父親を殺したと思っている本人かは分からなかったが、日頃から快く思ってなかった人間に対しての鬱憤がアルコールのせいで噴出したのは確かだった。またもう一つ喧嘩が始まった。こっちの方はハトゥン・サッチャの現地人ワーカー達だった。彼はあるプロジェクトのスーパーバイザーだったのだが、ある部下が自分の地位を狙っていると感じていたらしく、それが気の弱い彼にとっては日頃から鬱積になっていた。泥酔状態の彼は何度もその部下に殴りかかっていた。アマゾンのインディヘナが暴力的な文化を持っているわけではない。現地に住んでいても身の危険を感じた事はなかったし、現に周りの人間は全て喧嘩を止めようとしていた。また仮に一方が喧嘩に勝っても彼が勝者としての尊敬を集めるわけではない。これらの喧嘩は利害を争う抗争ではなく、男の力と勇気を証明するための喧嘩でなく、純粋な感情の発露と捉えるべきだろう。
ハトゥン・サッチャのワーカーの喧嘩は私も黙ってみているわけにはいかず、みんなと一緒になって止めた。酔っているとはいえ毎日の肉体労働で鍛えた肉体をねじ伏せるのは至難のわざだった。私はレスリングをする様に彼に組み付き、泥まみれになりながら抑えつけていた。いったん押さえつけられると彼も闘争心が収まるのか一応おとなしくなるのだが、かといって自由にするとまた何度も喧嘩を始めようとする。彼は完全に自制心を失っており、何度止めても同じ事の繰り返しだった。仕方が無いので喧嘩を吹っかけられているもう一方のワーカーと話し合い、彼と一緒に帰る事にした。
宴会を途中で抜けるのは気が引けたが夜のジャングルを歩き始めた。懐中電灯は一本しかなく、それを上手く使いながら四人分の足元を照らしつつ前進し続けた。誰も何も喋らなかった。その村からハトゥン・サッチャに帰るには結構大きな川を渡る必要があったが、一緒に付いて来てくれた人の一人が近くに住んでおり、その人がエンジン付きボートで送ってくれる事になっていた。家族はまだ宴会にいるのかそれとももう寝ているのか、彼の家には蝋燭の光もなく廃屋のようにしずかだった。彼はボートに括り付けてある鎖を外し、我々は乗り込んだ。
宴会では喧嘩を止めるのに一生懸命で、またジャングルを歩いている時は樹木の下だったので気がつかなかったがこの夜は満月だった。満月というのは普通でもそうなのに、ジャングルで見るとなおさら神秘的だった。ボートが川の中央に進むにつれて我々の前に別世界が広がっていった。川の両岸にはジャングルの樹木が濃紺の陰になって存在しており、目の前の空には満月があった。白い月の光は川面に反射する事で存在感を増しており、我々を神秘的な淡い光で包んでいた。夜だというのに信じられないほど明るかった。静寂が辺りを支配しており、エンジンの音だけが異様に響き渡っていた。
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