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本エッセイは、株式会社ジェーシー・コミュニケーション代表の山本が、世界で体験してきた国際交流のエッセイ集です。49ヶ国/9年分の旅行や海外在住体験がつまってます。

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第一章 メヘバ難民定住地

現場からみた発展途上国における経済的困難さ


分業化と専業化が発達し、労働条件が格段にいい先進国の労働者に比べヤギ商人は大変だし様々なスキルを必要とする。まず彼等はヤギを育てる事から始めなければいけない。食料は草なので重要ではないが、下手をすると畑の芽を食ってしまうので耕作の時期によっては紐でつないでおかなければいけない。せっかく育てても病気になって死んでしまうかもしれない。手間もかかるしリスクもある。もし自分で育てるのが難しいなら他人から買う必要がある。また、メヘバでしばしば行われていたのは子ヤギのレンタルである。これは子ヤギを知人に貸して、知人はその子ヤギを育てる義務があるが、そのヤギが大きくなって子を生んだらその子ヤギは育てた知人に所有権がある。大きくなり子供を産んだヤギは一定期間の後、元の持主に返される。これは楽なシステムのように見えて簡単ではない。貸す相手は親戚・友人が中心だとは言え、強欲な人間に貸したら戻ってこないかもしれない。またヤギが死んだりして返却できない場合もあるだろう。それは先進国の金融・リース業と同じで何かを貸す場合には必ずリスクがある。ヤギを貸す相手の信用度を量る必要があるが、ムーディーズやスタンダード・アンド・プアーズなどの格付け団体があるわけでもないし、死んだヤギの弁償に裁判所が助けてくれるわけでもない。全て自分のリスクと人を見る目でやっていくのである。

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がんばってヤギを飼育したり買ったりしてヤギが手に入ったとする。前述のごとくヤギを自転車に括り付けて運ぶわけだが、この運搬にもノウハウがいる。警官に遭って賄賂を求められたらどうするか。自転車が故障したらどうするか。下手な括り付けかたをしたらヤギが逃げてしまうし、強く締めすぎたら死んでしまうかもしれない。こういったことを全て一人で対処しなければならない。コンゴ国境についての人脈や販売ルートも重要だろう。アンゴラ人とザンビア人とコンゴ人は現地語も公用語もちがう。現地語の場合は似ている場合もあるにしても、語学の素養は必須である。こういった多様なスキルを持ってはじめてヤギ商人になれるのであって、これは少なくとも単純な販売業務をこなす量販店の売り子さんなどに比べればよっぽど難しい仕事である。

小作農を例にとってもう少し説明を続けたい。アフリカを始めとする発展途上国の農民の仕事は一般的に簡単だと考えられている。また小作農は思考能力よりも肉体を使う仕事であると思われている。彼等は読み書きや基本的な科学原理を理解するほどの教育を受けていないため農業といった単純肉体労働が中心となる産業でしか働けない、と考えられてもしかたがないかもしれない。しかしそれはまったくの間違いで、小作農というのは例えば単純業務の繰り返しである工員や販売員に比べると脳みそを必要とする仕事である。その難しさの要素と言うのはいくつかある。気候や害虫に収穫が左右されるし、農機具から化学肥料まで新しい農業技術が耕作のやり方を微妙に変えていく。そのいくつかある小作農の困難さの中で、特に重要な二つ挙げてみたい。

一つは収穫物の運送の問題である。まず発展途上国では交通が整備されてないという一般的な背景がある。私はある日、学校教育の視察をするため我々の援助団体がやっている低学年のための地域学校を訪れていた。たまたまその学校の近くにある生徒の家があったので授業のあと先生と母親を交えて少し会話していた。別に深い意味は無かったのだが、先生に通訳してもらってその生徒に

「大きくなったら何になりたいの?」 と聞いてもらった。子供はチンデレ(白人・非アフリカ人という意味)に質問を受けるのに戸惑っているのか、質問そのものが理解できないのか、もじもじして恥ずかしがっていた。すると横にいたお母さんは息子を笑顔でさとしながら言った。

「なにか答えなさいよ。なんでもいいのよ。車の運転手とかいろいろあるでしょう。」

この一言から彼等がどんな目で運転手という職業を見ているかが読み取れる。交通手段が限られている過疎地域や難民定住地ではピックアップトラックを始めとする車の運転手は重要な役割をもっている。難民の移動手段は歩く事である。たまに自転車を持っている難民もいるがそれは例外である。彼等は毎日歩く。長い時には定住地の端から端まで半日も一日もかけて歩く。ひどい場合には重い荷物をもって歩く場合もある。当然の事ながら途中で車が通るのを見たらヒッチハイクして車に乗せてもらおうとする。どの人を乗せてどの人を乗せないかというのは当然運転手にかかっている訳で、そういう意味では彼等は難民に対して強力な権力を持っていると言ってもいい。

車という乗り物が持っているスピード感というのもあるだろうし、それだけでモダニズムを感じさせるのだろう。それに加えて運転手は会社などの組織に雇われて安定した現金収入を得る事ができるという利点もある。人口の大半が自作農で現金収入が難しい社会では職業を持っているという事自体がもう地域社会における羨望の的である。

そして単に感覚の問題としての例えだが、難民にとっての車の運転手というのは先進国における飛行機のパイロットに近い。飛行機のスピード感やモダニズム、運転手やパイロットが得る金銭的報酬と社会的ステータスなど、いろんな意味で似ている。母親が息子に将来の夢として運転手を例に挙げたのはそういう背景がある。先進国の子供が将来はパイロットになりたいという感覚とまったく同じだろう。

アフリカの農村というのはそれほど運転手という職業は少ないし、それはアフリカの農村においてどれだけ交通手段というのが問題になっているかを物語っている。農民がどれほどがんばって収穫を上げても、交通手段がないために売ることができないというのはよくある話である。農作物を売れなかったら現金を得られず、現金無しには子供の学校の授業料も洋服も薬も買えないのである。実際、開発援助団体でも農作物の運送問題というのは大きな問題として取り上げられる事が多い。いくら彼等が農民に対して新しい農業技術を教えても、農作物が売れなかったら意味がない。開発援助用語では農作物のマーケティング問題という言い方をするが、これは生産物をどう販売していかに農民の収入を上げるかという問題である。当然、援助団体としては農作物の販売支援をすることによって農民を助けようとする。このマーケティング問題に関しては農作物の倉庫を建てたり市場調査をしたりする場合もあるが、その中でも重要なのは運送の問題である。とくに過疎地域にいくほど販売の問題と輸送の問題の関係は強くなっていくし、援助団体がトータルな支援をしようとするとこの輸送の問題はさけて通れなくなる。

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