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本エッセイは、株式会社ジェーシー・コミュニケーション代表の山本が、世界で体験してきた国際交流のエッセイ集です。49ヶ国/9年分の旅行や海外在住体験がつまってます。

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第三章 バックパッキングⅠ

ある国境の風景と中世イタリア


次の目的地はペルーのクスコだった。有名なインカ帝国の首都だったところである。ラパス―クスコ間は距離もある上にバスを途中で変える必要があり、思ったより時間がかかった。しかも通常のルートのバスは運行中止になっていた。というのもこのルート付近のボリビア農民が暴動を起こしており、交通妨害をしていた。仕方が無いので多少遠回りになる別のルートを取り、とりあえずペルー国境を目指したがそれでも途中には暴動をやっている農民がいた。ただ暴動そのものは小規模で、路上に小石を置いてある程度であり、かえってその程度の行動しかやってない彼等をみて安心するものがあった。彼等は政治的狂信者という感じではなく、普通の農民だった。しかも警察はきちんと彼等の行動を遠巻きに監視しており何の危険も感じる事はなかった。

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ラパスからチチカカ湖という世界で一番標高の高いところにある湖(標高三八一二メートル)を右手に眺めながら進んでいくと国境がある。国境の町は小さい割には活気が感じられた。他の多くの発展途上国の国境もそうだが、国境は草の根国際貿易の通過点になっている。当然大きな物流センターが在るわけではなく、田舎町にしては大きめの市場があるだけである。途上国では貿易というのは商社や物流業者によってのみ行われるわけではなく、個人が国境の反対側にある町の商人から仕入れてきた商品をバスに載せて運んだりする。まさにメヘバからコンゴにヤギを運んでいた商人もそうだ。南米ではさすがに自転車で物を運ぶ姿は見られなかったが、それでも国境で貿易をやっているのは個人レベルでやっている商人達だった。

道端には衣類・雑貨類などの商品が並べられ、軒を連ねた食堂は商人や旅人達の胃袋を満たしていた。ウユニの市場と雰囲気は似ているが、ただ一つだけ普通の市場と違うところがあった。国境を越えてペルー側に入ると百近い木製の机が並んでいた。元々塗られていたニスは長い使用に耐え切れずに一部擦り切れており、逆にそれが年期の入った風格を出している。机の上には電卓が置かれており、座っているのはみんなよれよれの服を着た中年のおじさんかおばさんだった。古びた机が道の両側に並んでいる様はちょっとした壮観だった。

別に商品らしき物は何も置いてないので最初は彼等が何をしているのか分からなかった。しかしボリビアの通貨をペルーの通貨に換える必要があったので、道行く人にこの町に両替所があるかと聞くと、その人の答えは拍子抜けするほど簡単だった。目の前で机を並べている彼等はすべて両替商だった。

私はいろんな国境を越えたが、砂埃が舞い立つ道路ぎわで両替商が机を並べているような所は初めてだった。普通の国境では二、三の両替商があるくらいで、この町のように数十人の両替商がいる所は初めてだった。ちょうどその時は客が少なかったのか、両替商の一部は自分の机をほったらかしにしてどこかへ行ってしまっていた。残っている人達は隣同士で雑談に花をさかせており、資本主義の尖兵であるはずの為替トレーダーには似合わない平和な雰囲気がただよっていた。

金融業というと丸の内やウオール街で働く一流ビジネスマンを思いうかべるが、元々は草の根レベルのニーズを満たす事から始まっている。銀行を意味する英語のバンク(bank)という言葉はラテン語の長机・腰掛を意味するバンコ(banco)という言葉に由来している。一説には中世イタリアでは銀行のもととなる両替屋は長いすで商売していたらしいし、別の説によると、当時の金貸しは広場のベンチに座って客を待っていたとも言う。当時の北イタリアは国際貿易の最先端を走っていたし、このペルー国境の町も貿易で成り立っている事には変わりは無い。だからこそ両替のニーズとそれを満たす両替屋が発達した。そういった意味では目の前に広がる両替屋の風景は当時のイタリアと変わらないはずであり、中世資本主義の雰囲気を垣間見たような気がした。時空を翔ぶような旅のこの一瞬はなかなか頭から離れなかった。

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