第三章 バックパッキングⅠ
自分の民族性への微妙な感情:日本嫌いの日本人
以前は自分の国や民族性をかっこ悪いと思ったり、心のどこかで恥じていたりする人がいるのは日本だけだと思っていた。外国かぶれや日本に嫌悪感を持っている日本人に会うのはこれが初めてではないし、海外で生活していると結構そういう人に会う。また日本にいてもテレビのアナウンサーの言葉や新聞の社説には日本や日本社会が外国(特に西洋諸国)に対して劣っているというニュアンスに溢れている場合がある。そういうマスコミの論調を見たり読んだりしていると日本人は自分達の社会に自信が無い民族なのだと自然に思い込んでいた。しかしそれは日本人だけに限った話ではないし、少数派とはいえ自分の国や民族性を好きになれない人は他の国にもたくさんいる。その事を最初に明確に考え始めたのはエジプトにいる時だった。
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当時、私は地中海沿岸諸国を旅行していた。冒頭に書いたルクソールのコーラ売りのおじさんに会ったのもこの時である。ルクソールの後は北上してアレクサンドリアで観光をしていた。この街はアレキサンダー大王が自分の名を冠して建設した都市で、長い間エジプトのみならず地中海世界の中心的都市であった。そこには古代では世界最大と言われる図書館が存在していた。七世紀に破壊され現存していないのだが、当時はそれを知らず、わざわざアレクサンドリアに来て間抜けにも古代最大の図書館とやらを探していた。どのガイドブックにも載ってないしどの辺りにあるのか検討もつかないのであきらめてぶらぶらしていると路上で露天の古本屋がやっていた。学術書から料理の本や子供向けの本までいろいろあり大半の本が英語の本だった。エジプトであろうとオランダであろうと、ある程度の教育を受けている人は殆んど英語を読み書きするという社会では英語の本は重要な位置をしめる。日は沈みかけており、夕陽の光で見る表紙の色が落ちかけている本というのはいかにもぼろくさく見える。しかし旅先での読書というのはまた違った味があり、二冊ほど面白そうな本をかった。値段は二ドルくらいだったと思う。古代で世界最大の図書館を見るはずが露天の古本屋で古本を買うはめになってしまった。
買った二冊のうち一冊は「スクールズ・アンド・ソーシャリゼーション」(Schools and Socialization:学校と社会化という意味)という本だった。一九七一年出版で主に友人グループと学校教育が子供の社会化に及ぼす影響を論じた本だった。学校や家族が子供の成績や将来の職業に及ぼす影響や、大人や他の子供との関係が社会化のプロセスに及ぼす影響などが書かれていた。古い本なのでこれといって新しい発見を論じているわけでもなく、大胆な理論を展開しているわけでもないのだが、豊富な実験結果や資料を使って子供の成長と社会に適応していくプロセスを記述していた。
そのなかに面白い実験結果が書かれてあった。子供を無作為に選び一つのグループを作った後、彼等を自由に遊ばせる。すると自然に彼等のなかでの特有の遊びやルールが出来てくる。リーダーシップを取る子供も出て来るし、彼等独自の遊びをする姿は一種の小さなコミュニティーと言っていいだろう。その次はリーダーシップを取らないタイプの子供だけを選び、別のグループを作って同じ事をやる。すると前回と同じで彼等だけの遊びやルールが出来て、彼等のコミュニティーを形成する。そして彼等特有の文化・やり方が充分に浸透した段階でリーダーシップのある子供をそのグループに入れてみる。すると彼はまたそのグループのリーダーになるらしい。しかし面白いのはその子供はリーダーになっても、もうすでに存在している遊びとルールに従うということである。ようするにどんな子供でも、たとえリーダーシップのある子供でも、大多数が信じている既存の文化やルールには従わなければいけないという事である。
あと一つ面白い実験が書いてあった。実験というより観察という言葉が当てはまるほど簡単なものである。多数の白人の子供と数人のマイノリティーの子供を一緒にして遊ばせる。すると一部のマイノリティーの子供は、自分と同じ人種の他の子供にたいして敵対的な行動をとる事があるという。ただこれだけである。しかしこれを読んだときは目からうろこが落ちたような気がした。日本でも外国でも、特にアメリカでは、主流派の中でマイノリティーはいつも団結して自分の文化を守ろうとしているかのように考えられている。しかしこれは間違いで、日本人女性が日本を嫌いになる事があるように、マイノリティーはマイノリティーに対して敵対的になる事がありうるし、彼等の心理というのはもっと複雑である。
この典型的な状況として移民がある。彼等は言葉も文化も違う国からやって来て新しい社会に身を投げ出す。当然多数派の文化に適応するプレッシャーにさらされ、世代が進むにつれて適応・同化されていく。リーダーシップのある子供でさえ多数派の文化には従うように、普通のマイノリティーが移民しても当然同じ事が起こる。そして同じマイノリティーの中でもこの多数派文化への憧憬や適応の度合いという点では様々な人がいる。一部のマイノリティーは西洋社会への憧憬が強く、適応度が高い。そしてその憧憬の裏返しとして、彼等は他の適応度が低い人々に対して軽蔑のまなざしを向ける事がある。 軽蔑的な扱いを受けたり批判を受けたりした側は当然面白くない。ラパスのレストランで日本人女性から日本批判の話を聞きながら夕食を取った私のような立場になって嬉しがる人はそうはいないだろう。批判や軽蔑を受けた側は、自分達の文化を批判する輩を「西洋かぶれ」だと言うかもしれないし、時によっては別な言葉で彼等に対する反感や微妙なアイデンティティーの機微を表す。
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