第一章 メヘバ難民定住地
アフリカに渡っていきなりスラム訪問
アフリカ大陸は初めてではなかった。ただ行ったことがあるのが、エジプトとチュニジアというアラブの国で、いわゆるブラック・アフリカの国を訪れるのは最初だった。別に不安などはなくこれから体験する新しい世界に対する好奇心で胸がふくらんでいた。空港には私がボランティアをすることになっている援助団体の日本人現地駐在員が迎えに来ているはずであり不安があろうはずがなかった。空港に着くとそのまま出迎えの車に乗り、首都ルサカにあるオフィスに向かった。そのオフィスは日本人駐在員の住居を兼ねているだけあり意外に大きく、アフリカとは思えないほど奇麗で清潔に保たれていた。
次の日からルサカオフィスの業務を少しずつ手伝い始めた。内容は特に難しいものではなく数日するとある程度慣れて来た。ルサカに着いて三日目、仕事が終わるとここのオフィスの運転手がルサカ見学に連れて行ってくれることになった。どこに行きたいかと聞かれると「スラム」と即答した。アフリカ滞在数日目の私は好奇心の固まりになっていたし、「多様なにんげんを見て周る」というのは私にとっての宗教のようになっていた。
運転手の彼は二十台半ばの好青年で、生まれはザンビアの東部だがルサカに移り住んでもう八年近い。そんなに大きくないこの首都の道はすべて知っていた。教育システムが発達してないアフリカで高校を卒業した彼は高学歴の部類に入るだろう。英語もうまく、雑誌などもよく読んでいると思われ、アメリカのラッパーの事なんて私よりも知っていた。
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そんな彼が運転するのは磨き上げられたルサカオフィスのターボチャジャーつきのパジェロだった。大自然に囲まれたアフリカでオンボロジープに乗りながら活動することを想像していた私にとって、実を言うとその奇麗過ぎる三菱製ジープは過保護すぎる様に思われた。本来だと難民援助に使われるべき予算がなんだか日本人駐在員の贅沢のために使われているような気もした。(きれいな外見に反してそのパジェロは数ヵ月後には廃車になるくらい古かったのだが、この時は知る由もない。)しかし、後で分かったのだが、この整備の行き届いた車を使っていた我々は別に贅沢をしていたわけではなかった。他の援助団体もオンボロ車を使っているところはなく、逆の言い方をするとザンビアでいい車を使っているのは援助団体が(特に外資系援助団体)が目立っていた。(これは数ヵ月後に訪れることになるモザンビークでも同じ事が言えた。)
これにはちょっと説明がいる。これら援助団体は必要があって整備された車に乗っているのだ。たとえば我々の援助団体では活動の中心はルサカから車で十時間はゆうにかかる所にある難民キャンプである。道は政治が不安定なコンゴ国境の近くを走っており、国境を越えたゲリラのしわざとみられる発砲事件もたまに起きていた。そんなところで車が故障したらどうなるだろう。近くに公衆電話があるわけでもない。昼間でもたまにしか通らない車が夜になったらもっと減るだろうし、それに反比例して危険度は増す。都市部でも同じことである。夜どこかで車が故障して動けなくなったら、タクシーを見つけるのが早いか強盗が来るのが早いか自分の命で賭けをすることになる。
これは別にアフリカが犯罪で満ちていると言っているわけではない。我々先進国の人間は第三世界諸国に対して誇張されたイメージを持つ傾向にあり、犯罪の危険性というのも過大に伝えられているように感じられる。ザンビアに一年住んでいて現地人の間での犯罪(加害者と被害者がザンビア人)というのはそんなに多いとは感じられなかった。ザンビア人だったら夜中に一人歩きしても強盗に遭う事はあまりないだろう。ただここで重要なのは彼等にとって我々外国人は厳然たる事実として金持ちであり、そんな我々が夜中に立ち往生したら犯罪を誘っているようなものである。そういう現地の環境で整備された車に乗るというのは単に危機管理の一環としての必要事項であるに過ぎない。
そのパジェロで訪れたスラム街は思ったより普通の住宅地だった。実際見てみると想像したほど汚いわけでもなく、危険なようにも見えず、まったくの別世界を想像していた私にとっては拍子抜けした感じだった。確かにあまりきれいではないが、家はコンクリートで出来たしっかりとした建物があり、植物で垣根が作られている所もある。インドのボンベイでは地方から出てきた労働者とその家族が道路わきに掘っ立て小屋をつくって住んでおり、それに比べれば雲泥の差と言ってよかった。
しかし、そのうちちょっとした変化が起こった。子供達が集団になって我々の車を走りながら追いかけてきた。顔は笑顔に満ちていた。考えてみればルサカの貧困地区をこんなにピカピカの車で訪れる人などそういなはずであり、子供達にとっては珍しかったのだろう。運転手は私にしっかり見物させるためにわざとゆっくり運転しており、それは子供の足でも追いつく程度のスピードであり、そのため彼等は十分も二十分も我々の後を追いかけていた。別に悪いことをやっているわけではないが、その事はあまり気持ちの良い事ではなかった。現地では十分に高級車の部類に入るパジェロで貧困地区に入り、舐め回すように車を転がし、我々はサファリの動物見学のようにして彼等を見学していた。そういうことを知らない子供達は惟無邪気な好奇心のまま我々を追いかけており、もし次のことが起こらなかったら後味の悪いままスラム街を去らなければならなかっただろう。
あることに気が付いたのだが、彼等は口々に現地語のニャンジャ語であろう言葉で我々を呼んでいた。
「ムズング―!」
「ムズング―!」
子供達は相変わらず満面の笑みのままである。
気になったので運転手にこれはどういう意味か聞いてみたら、彼は少し笑いながら答えた。
「白人という意味だよ」
最初これにはびっくりした。先進国の観点では典型的な黄色人種である私に向かって白人と呼びかけるというのはこれほど奇妙な事はない。しかし、彼等の視点から考えてみると自然な事でさえある。まず、ザンビアにおける白人というのは先進国から海外赴任してきたビジネスマンなどで必ずと言っていいほど金持ちである。彼等は高級住宅地に住み運転手付きの車で移動するというのが典型的な姿である。そして現地人にとっての黄色人種というのは、公園に住みついている東京の浮浪者ではなく、中国の田舎で田んぼを耕している農民でもない。彼等にとってのアジア人とはビジネスマンや大使館の人間で、常に金持ちでそれゆえに往々にして影響力をもっている人達である。そういうイメージしか彼等は持っていないし、普通に生活している上ではそれで十分である。先進国の人間がアフリカ人を想像する時、槍をもって狩に出かける未開人やお腹の脹らんだ栄養失調の子供しか想像できないのと同じである。社会的イメージという意味では、ザンビアにおける黄色人種のイメージとは白人となんの違いもないし、ムズング(後で分かったのだが、この言葉には白人という狭義と共に非アフリカ人という広義の語感もある)と呼ばれることは自然でさえある。当然のことながら彼等ザンビア人は、よしにつけ悪しきにつけ日本人と白人を同じように扱う。
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