JC Communication
本エッセイは、株式会社ジェーシー・コミュニケーション代表の山本が、世界で体験してきた国際交流のエッセイ集です。49ヶ国/9年分の旅行や海外在住体験がつまってます。

筆者へのコンタクトはここをクリック。

会社HPブログ もどうぞ。
JC Communication
JC Communication JC Communication

第三章 バックパッキングⅠ

アンデスのインディへナと地酒を飲み交わす


まず彼等は全員が公用語のスペイン語を喋るわけではなかった。ケチュア語というインカ時代の言葉がまだ残っておりそれが彼等の母国語だった。これは後で知ったことだが、ペルーでは農村地帯に行くとまだケチュア語がしかはなさない人々がいる。大半のポーターはスペイン語を理解したが一部はカタコトしか喋れなかった。

彼等が飲んでいるのはサトウキビから作る蒸留酒だった。蒸留酒というのは水とアルコールの沸点の違いを利用して作るため、最初に出てくる蒸気のみを蒸留するとかなり高いアルコール度を得る事が出来る。この地酒もそのようにして造られたもので多分八十度くらいのアルコール度数があったと思う。無色透明のこの液体は匂いだけは強く、飲んでみると咽を焼くようにしてアルコールが下がっていくのがわかる。味もへったくれもないし、風味を感じるには少し慣れが必要である。彼等はこれをコーラのビンに入れて持って来ていたが、これなら二、三本あれば五人で飲んでもゆうに足りるだろうと思われた。

www.flickr.com

この約一年後に私はエクアドールでボランティアをやる事になるが、エクアドールの田舎でも同じ酒が飲まれていた。そこではプーロ(Puro)と呼ばれており、スペイン語で純粋という意味の名前はこの上なくピュアなアルコールに近いこの酒に似合っていた。世界中どの空港でも危険物の機内持込禁止を呼びかける案内がはってあるが、首都キトの空港ではポスターではなくてガラス張りの展示台で危険物持込禁止を説明していた。そこにはナイフ・ガソリン・拳銃などが並んでいるのだが、そこにはプーロも置いてあった。ガソリンほど引火性は強くないにしても純度が百パーセントに近いプーロだったら工業用アルコールを持ち込んでいるのと変わらないし確かに危険だろう。しかもプーロはビールやコーラとちがって近代的な工場で決まった容器に入れられるわけではない。そのためプーロをイメージさせるような容器がなく、その空港では普通のプラスチック容器にマジックで「プーロ」と書いてこの商品を表現していた。

そんな酒を飲み続けるとアルコールが体にまわり、弾む会話と共に色んな事を考え始めた。彼等は毎日荷物を運んでいる。重い荷物を背負い、全身汗だらけになりながら黙々と足を前に運んでいる姿は肉体労働の純粋な姿であり、それだけを見ていると昔の奴隷というものはこんなだったのかと思わせるくらい彼等が哀れに見えてくる。実際、我々バックパッカーの間では彼等は現地社会での最下層民だと考えられていたし、彼等は他の仕事をやる能力がないからポーターという最悪の仕事をしなければいけないのだと思われていた。

現地語を解し、現地の人々とコミュニケーションをとることの重要性はこういう所にあるのだろう。彼等と話してみると、現地社会の貧困層だとおもわれていたポーター達は実際には地方農村における裕福層であるという事を知った。先進国の感覚で現地社会を見る事の愚かさをまた認識した。アフリカでもそうだが、貧しい社会では現金収入があるという事だけでもう裕福な階級に属する事が多い。前述したように過疎地域では交通手段の問題で農作物を売ることが難しく現金収入を得る事が難しい。かといって他に現金を得る手段もなく、現金がなければ石鹸も包丁も子供の教科書も買えない。そういう一般的な農民に比べてポーター達には収入がある。この仕事は毎日あるわけではなく日雇い労働の域を出ないが、それでも現金をもらえると生活の幅が広がるし貧しい彼等の社会で一段上の階級に属する事が出来る。

もらった現金をなんに使うかと聞いたら、自分の畑を耕させるために人を雇うという返答だった。ちょっとしたブルジョワジーだろう。これもメヘバと似ているし、現金収入を境に雇用者と被雇用者の格差が明確に分かれている事が確認できる。他人を雇うといっても隣のおっさんであったり従兄弟の兄ちゃんであったりするので先進国でいうところの雇用者と被雇用者ほど厳格な地位の区別が生まれている訳ではない。しかし貨幣経済が完全に浸透しているわけではないアフリカや南米の田舎でも雇用関係が存在しているという事が面白かった。よく未開社会には貧富の差がないと言われる。それは正しいがここで言う未開社会というのは、ジャングルの奥深くに住んでいて外界との接触がまったくないような社会のみに限られる。そういう意味では二十一世紀の時点では貧富の差がない社会はもうほとんど存在しないだろう。ザンビアの難民定住地でもペルーの山村でも貧富の差は存在している。

ザンビアとペルーのこの二つの社会にはもう一つの類似点があった。それは一夫多妻制だという事である。一夫多妻制はイスラム社会を例外としてあまり一般的ではないし、二十一世紀の先進国では存在しない。そういう意味では一夫多妻制の話を聞けるのは興味深かった。「一夫多妻制はいいか?」などと簡単な質問をすると彼等全員がうんという。彼等は全員複数の妻を娶っていたし、これは彼等の文化なので当然の返事と言えよう。そして「一夫多妻制の悪いところは何か?」と突っ込んだ質問をすると彼等はにやにや笑いながら、「全ての妻を平等に接しなければいけない事」という返事が返ってきた。これもアフリカで言われている事と同じ事なので実は質問する前からある程度こういう返事が返ってくるだろうというのは予想がついていた。要するに女の嫉妬に用心しろという事である。妻が複数いる夫と結婚したら、セックスの回数から自分の子供の扱いまでちょっとした事で自分と他の妻を比較してしまうのだろうし、その気持ちもわかる。また彼女達は夫とその妻達という閉じられた小さな世界だけで暮らすのが普通だし、そういう状況ではちょっとした違いが大きなストレスになるのも自然な事だろう。イスラム教の教典であるコーランには「全ての妻を平等に扱えるなら」妻を複数娶ってよいと書いてあるらしい。女性主義者が白目をむいて怒りそうな事ではあるが女性の嫉妬というのは一夫多妻制の家庭において重要な問題だと捉えられている。

彼等ポーターは全員が最低でも二人、多いのになると四人も妻がいた。裕福な男は複数の妻を持ち、貧しい男は結婚できないという生物学的かつ社会学的な公式がそのまま当てはまっていた。

「俺達は働き者なんだ。働くだけの体力もあるし、それだけやる気もある。ポーターの様にきつい仕事だってやる。嫁をもらえない奴らは怠け者だし、昼真っから酒を呑んだくれて働きやしない。」

と、彼等は言う。自信を持って言う。確かに重い荷物を背負い一言の文句も言わずに黙々と歩いている姿は、彼等の自信を裏付けするだけの体力と気力を物語っている。特にリーダー格の男は若干二十代後半くらいの年齢なのに年上の男達を含めて他のポーターを上手くまとめており、例えは悪いが山賊の頭をやらせても充分に務まりそうな面構えをしていた。

この辺りがアンゴラ難民やペルーの農村社会に一夫多妻制が存在している理由かもしれない。体力も気力も充実している彼等は確かに妻の一人や二人は食わせていけるだろう。それに対して、不健康な男や怠けものは自分自身さえも養えないかもしれない。また発展途上国では貧しくなるという事が直接自分や子供の生命に関わって来る。貧しいと栄養状態が悪くなり、薬も充分に買えず、不衛生な家に住まなければいけなくなる。もし一人の女性がいて、呑んだくれの男の妻となるか働き者の二番目の妻になる選択肢があったら、後者を選んだとしても何の不思議も無い。

「結婚できない奴は怠け者さ」と切って捨てた彼等の言葉は弱肉強食の世界で勝者になった者の理論である。勝者は多くの妻を持ち、敗者は何も得ない。一夫多妻制は男にとって良いシステムだと思われがちだがどうだろうか。勝者の側になれたらそれほどいい事はないだろう。しかし敗者の方にまわったら一生結婚できないという厳しいシステムである。男女の数は同じなので、勝者の数だけ敗者がいるという競争の激しいシステムである。一人の男が三人も四人も妻を娶ったら、同じ数だけ結婚できない男が増えていく。

貧しい社会を説明する時に資本主義が発達していないという表現がなされる時がある。投資銀行や大工場などに代表される近代資本主義のしくみと言う意味では確かにそうだろう。しかし資本主義を「自由な競争」と広義に解釈するとそうではない。人間としての裸の競争という意味では第三世界の貧しい階級の人々でも激しく競争している。一夫多妻制がそうだし、市場で物を売っている商人達がそうだし、行き先を叫びながら一人でも多くの客を集めようとしているミニバスの運転手がそうである。特にこういった草の根経済活動では政府の規制を受ける事がなく自由に商売している。そういう意味では、一夫多妻制でもバスでの物売りでも、素朴な資本主義という意味での自由競争がうごめいている。

www.flickr.com
Copyright © 2009 JC Communication. All rights reserved.