第四章 バックパッキングⅡ
夜空を眺めながら考えたこと
我々の行きつけのバーにサロというのがあった。特別なんの特徴もないバーだが夜になるといつも庭で焚火をして明かりと暖を取っていた。赤道直下のエクアドールなのだが湿気がないせいか夜になるとひんやりしてくる。そんな時に焚火をして炎を見ながら、または炎に照らされている友達を見ながら会話するのはなんともいえない。バーの造りは南国風で、柱を立てた上に屋根を乗せているだけである。壁がないのでバーの音楽が前の庭に直接流れてきていた。バーといってもそこで飲み物を買った覚えはなく、酒代を抑えるためにいつも近くの酒屋で買ったラム酒を持ち込んで他のアルテサノ達と回し飲みしていた。
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ある日焚火の前でごろんと寝転がってみると目の前に星空が広がっていた。足もとは焚火が暖めており、胸から上は夜のそよ風と大地が体温を少しだけ奪っていた。心地よさと平和と安息が私を包んでおり、日本の正反対にある大陸で幸福を感じている自分と自分の人生が素晴らしいようにも思われ、数奇にも感じられた。
そして突拍子もなく文明について考えていた。文明は素晴しいと思った。エクアドールの田舎で文明を考えるとは突拍子もない事だが、至福の瞬間を南米人達と共有しているという事実が私を感慨深くしていたのかもしれない。ここでいう文明とは高度な宗教でもなく、ナイフとフォークで上品にキャビアを食う事でもなく、オペラを鑑賞する事でもない。整った制度が機能している社会と言う意味であり、もっと直接的に言うとお金持ちの社会と言っても良い。そしてこれは南米に比べて日本の方が良いと言っている訳ではなく、四捨五入して言うとアフリカに比べて日本や南米は素晴らしいという意味に近い。
私はアフリカに一年いた後に南米に来たが、当時は南米もアフリカも同じだろうと思っていた自分の無知を告白しなければならない。この二つの大陸を発展途上国というカテゴリーで一括りにしてしまい、たいした違いはないのだろうとたかを括っていた。しかし南米の実情はアフリカとは全く違う。両方とも貧困層が存在する事は確かだが、アフリカのそれは南米とくらべて比較にならないほど大きい。南米には確立した中流階級が存在するし社会制度も比較的整っているが、アフリカの中流階級はそれほど発達してない。そしてアフリカや南米の一部の貧困層と比べると南米の中流階級というのは幸せである。ご馳走を食べる事はあまりないにしても子供が栄養失調になる事はあまりない。大学に行ける事は少なくても、読み書きが出来る程度の教育は受けることは出来る。アフリカの農村に生まれたら一生農民のまま生きていくことになるが、南米の中流階級に生まれたら自分の人生にある程度の選択をする余裕がある。
今隣で喋っているアルテサノ達がいい例である。彼等の格好はみすぼらしく、やっている事は行商にすぎずない。他の仕事をやる能力がないから道端で工芸品の販売する事しか出来ないし社会の落ちこぼれだと考える人もいる。しかし彼等は落ちこぼれでもないし貧困層でもない。前述のコロンビア人アルテサノのインテリは大卒だし、リマであったカルロスもチリで一番いい大学を卒業していた。さすがにワイキは違うとしても、残りのアルテサノ達は特別教育レベルが低いとは思えなかったし、社会的にも中流かそれ以上の階級の出身だと思われた。彼等は普通に働いて平凡な人生を歩もうとしていないだけであり、自分の好きな工芸品を作りながら気ままに旅をするという青春を選択しただだけである。そしてそんな事が出来るのは生活基盤がある中流階級以上だから可能であり、南米の貧困層やアフリカだったら金銭的にも精神的にも不可能である。
また彼等が工芸品を売っている相手はほとんどが観光客であるという事実も見逃せない。大半はヨーロッパやアメリカから来た西洋人観光客であり、また一部はエクアドールやペルーから来た南米人富裕層の観光客でもある。彼等はお金持ちだからこそ十ドル程度の商品だったら簡単に買えるし、それがアルテサノ達の旅費や生活費になる。逆に言うと文明の利益を充分に享受している西洋人や南米の上流階級が存在するからこそアルテサノの生活が成り立つ。もしこの世に西洋文明やそこから生まれる豊富なお金という物が存在しなかったら彼等の存在もありえないし、彼等がいなかったら私はこの村で南米社会の一面を覗く事は出来なかった。
寝転がったままの私の目の前には相変らず半球の星空が私を包みこむように広がっていた。この夜空も、流れてくる音楽も、照らし出す焚火も、この空間に存在する全てが貴重に思えた。文明はお金を生み出し、中流階級を確かなものとし、アルテサノのような生活を選択する事を可能にする。そして文明があるからこそ私は彼等とこの瞬間を共有できるのである。文明の効用というのが生きた実感として心に染み込んでいった。
モンタニータには十日くらいしかいなかった。私の旅の速度は速い方で、普通は町を一通り見たら次の目的地に移動する。それに比べるとこの小さな村に十日もいたというのは異常に長かったと言えるだろう。しかしそれだけ興味深い滞在だったし、知り合った友達にお別れの挨拶して回るだけで小一時間かかった。イネスおばさんと分かれる時、「いつ戻ってくるの?」と聞かれ困った。よっぽどの事がない限りここには戻ってこないだろう。仕方がないので正直に「多分もどれない」と言うと彼女はすこしだけ悲しそうな表情を浮かべた。彼女の悲しさの意味は私との別れが悲しいともとれたし、やって来ては去っていく旅人という生き物を悲しく感じているともとれた。もしくは去っていったら二度と戻ってこない人達を見ていると、彼女の村がつまらない村だと軽んじられているように感じたのかもしれない。
私自身誰もいない幹線道路で一人バスを待っている時はむしょうに寂しさを感じた。彼等ともう二度と会う事はないと思うと大切なものを失っているような気がしたし、もう少しこの村に滞在するべきかも知れないとも思った。しかし次の土地ではまた別の発見に出会えるというのが旅の常であり、その思いが前進の原動力だった。目の前にバスが止まりドアが開くと足は自然に前に進み、私は車上の人となった。バスは何事もなかったかのように次の目的地へ向かって進み始め、モンタニータは少しずつ後方へ消えていった。
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