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本エッセイは、株式会社ジェーシー・コミュニケーション代表の山本が、世界で体験してきた国際交流のエッセイ集です。49ヶ国/9年分の旅行や海外在住体験がつまってます。

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第二章 チリ共和国

暴動発生!


そんなチリの平和な生活に細波がたった。そしてそれはテロリストが乗った飛行機がニューヨークの貿易センタービルに激突した日とたまたま同じだった。アメリカ人はケネディ大統領が暗殺された時に自分がなにをやっていたかという事をほとんどの人が憶えていると言われる。それと同じ感覚で私は二〇〇一年の九月十一日には自分が何をやっていたかと言うのをよく憶えている。この日は学校の近くにあるレストランでコーヒーを飲みながらでスペイン語の授業を受けていた。レストランに入ってスペイン語会話の練習をしているとレストランのテレビが炎上する世界貿易センタービルと映していた。最初は映画の特殊撮影の特集をやっているのくらいにしか思わなかったがあまりにも同じ映像ばかりを流すのでクラスメートに聞いてみるとテロだという。

しかしこの日にサンチアゴで起こっていた出来事は、ニューヨークで起きた事と重なりあって鮮明に私の記憶に残っている。大学の授業をキャンパスの外で行うというのは通常ありえず、我々が近くのレストランで授業をしていたのは理由がある。この日は大学が休校になっていた。九月十一日というのは毎年のように過激派学生がデモと暴動をやる日で、もう事前にこの日は彼等が大学の校舎にこもり過激活動を行うというのが分かっていた。よって大学も事前にこの日は休講にしており、ただ外国人学生のためのスペイン語の授業だけが例外的に大学の外で行われていた。

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そしてなぜ過激派学生が毎年九月十一日になるとデモをやるのかというのは長い間理解できなかった。今でも彼等の意図というのは理解に苦しむ時があるが、それでもこの日が意味する事は分かった。九月十一日というのは約三十年前に有名な独裁者アウグスト・ピノチェがクーデターを起こしてチリの暗い時代が始まった日である。

事の始まりは一九七〇年にさかのぼる。この年にチリでは大統領選挙が行われ、サルバドール・アレンデという人が当選した。当時も今もチリは比較的高いレベルの民主主義が整っており、選挙そのものには大きな問題があったとはされてない。しかし歴史上の問題としてはこの人が社会義者だったという事である。国のリーダーとして彼は世界で最初に民主主義的選挙で当選した社会主義者だった。そういう意味では彼はユニークな存在だったのだが、時は冷戦のまっただ中である。アメリカはキューバ危機の熱気から抜けきれておらず、ベトナムでは毎日米兵が死んでいた。アメリカには過去の公文書は一定期間のあと公開しなければいけないという法律があり、そのために当時のアメリカ政権内の情報も一部読む事ができる。それによるとアメリカの行動は早かった。すぐに「フベルト」というコードネームの作戦が始まり、重要人物の誘拐などを含む対応案が検討され始めた。実際ニクソン大統領はその後チリに関するシー・アイ・エーに対する指令がもとでスキャンダルを生み議会から調査を受けている。

その後実際にチリでクーデターが起こるまで三年の月日を要している。このクーデターにアメリカの専門化が助言していたのは事実らしいが、それ以上どこまでアメリカ政府が関わっていたのかは不明である。しかし一九七三年九月十一日未明、チリ軍部は静かに、しかし一斉に動き出した。彼等は首都や地方行政の中心を占拠し始め、ラジオ局は軍部のプロパガンダ放送に変えられた。一番効果的に作戦が進んだのはコンセプションというチリ第三の都市である。まず軍部は政府役人の電話回線を切り、彼等が外部と連絡できないようにした。次に彼等を拘束し近くの島へ隔離するという徹底ぶりであり、政府役人が排除されたこの町は完全に軍部のコントロール下に落ちた。これら全ての作戦を終えるのに八十五分しかかからなかったという。 アレンデ大統領は飛行機で国外に逃げる事を勧められたが、誇り高いのか頑固なのか、それとも両方なのか、彼はその申し出を断って大統領官邸に居続けた。陸軍、空軍、海軍、軍隊警察の四軍部全てが連携したこのクーデターに政府はなすすべがなく、昼過ぎにはクーデターは終わっていた。当時のアメリカ海軍のチリ大使館付き武官はこのクーデターを「ほとんど完璧」に行われたと表現している。全てが終わった時、アレンデ大統領は遺体になっていた。自殺したと考えられているが、一説には内部の人間に殺されたとも言われている。彼の遺体は家族の墓地に埋葬されたが、その墓地からはアレンデという氏がすべて削り取られ、世界で最初に選挙で選ばれた社会主義大統領は無名墓地で眠っている。

しかしチリ国民の本当の不幸が始まったのはこれからである。コンセプションではクーデター中に政府の役人は近くの島に隔離されたが、他の都市でも同じ事が行われた。ピノチェ政権から危険分子とみなされた人達は各地で島や町のスタジアムに拘束された。そして彼等は殺されている。クーデター後の十九日間で約三百人が殺されたという。その後も政治的粛清は続き、数千人が処刑され、または行方不明になっているという。この粛清でいなくなった人達のことをチリではデサパレシード(desaparecido)という。日本語に訳すると行方不明者という意味だが、もともとは「消える」と言う意味のデサパレセール(desaparecer)という動詞が語形変化した単語で、無実の人々がある日突然いなくなってしまった、という語感に溢れている。行方不明になった彼等がどういう運命をたどったかというのは今も裁判が続いており最終的な事は不明だが、少なくとも一部の人達は殺されて海に投げ捨てられていた事が明らかになっている。

当時からアメリカ政府はチリの政治粛清に関しては知っていた。サンチアゴ大使館付けの武官やエフ・ビー・アイ担当官からワシントンまで報告が提出されている。前述のクーデター直後に三百人近く殺されたと言う報告は国務長官補佐官から国務長官へのメモに書いてあるし、また一九七五年にはエフ・ビー・アイ捜査官がある逮捕された左翼チリ人を調査した報告書が存在している。それにはその左翼チリ人がその後拷問を受けた後に行方不明になっている事が書かれてある。要するに、アメリカ政府がこのクーデターを陰で支援していた事は明白だし、その後ピノチェ政権の人権侵害に関して充分な情報を持っていたにも関わらず何の行動も取ってない。

サンチアゴから車で二時間くらい走ったらバルパライソという港町がある。街にはシーフードのレストランが並んでいたり、数十年も歴史があるような古いバーがあったりして、潮の匂いと伝統が交差する街である。この街を訪れていた時にある落書きが書かれてあったのを見た。

「殺人鬼のアメリカさんよお。オサマ・ビン・ラデンなんて戦争を始める言い訳なんだろ?」

ちょうどニューヨークのテロ事件のあとアメリカがアフガニスタンに侵攻した頃である。その後のイラクに対する第二次湾岸戦争ではたしかに国際社会でアメリカの軍事行動に反対した国や人は多かったが、この時点ではアメリカの軍事行動は止むを得ないと思われていた。その上、オサマ・ビン・ラデンを言い分けとしてアメリカが戦争を始めていると主張するなど言い掛かりもいいところだろう。当然一般的チリ人がそう思っているわけではなく、これは一部の過激な若者の意見であると思って間違いない。ただこの国で三十年も経ってない昔に起きた軍事クーデターとその後に続く独裁政権に対してのアメリカの行動を見ると、彼等を単なる狂信的な反米主義者と決め付けるのもどうかと思われる。七十年代の後半にキッシンジャー国務長官がピノチェ大統領にメッセージを送っている。それによると、「アメリカはあなた(ピノチェと彼の政権)がやっている事に同情の念を感じずにはいられません」とある。いくら外交辞令だといえ無実の人を殺していた大統領に言う言葉ではないだろう。

そしてもう一つ問題がある。ピノチェ大統領は一九九〇年に引退するまで十七年間独裁者として君臨したが、その当時からあった行政制度が一部残っている。例えば、数は多くないがチリの議員の一部は選挙で選ればれずに軍部の高官が無条件で就任する事になっている。チリには文官警察は存在せず、すべてカラビネロ(Carabinero)と呼ばれる軍隊警察である。実際の活動は他の国の警察と変わらないが、組織上は軍部に属している。彼等は制服を着こなして凛々しい姿で街をパトロールしており、賄賂を払えば何でもやりそうな一部の第三世界の警察とは比べ物にならないほど頼もしい。実際ある国際機関の調査によると警察を含めて政府全般でみてもチリは先進国並みに汚職が少ないという結果が出ている。しかし外国人にとっては頼もしくても、チリ人にとってのカラビネロは三十年前にはクーデターに荷担し、つい十数年前までは独裁者の手先となって民衆を弾圧していた側の組織である。大統領が変わったからといってすんなりと気持ちの整理がつくわけではない。また独裁政治が終わった後でも最近まではカラビネロのデモを鎮圧するやり方が暴力的過ぎると批判されており、例えば一九九三年のデモでは二人が殺されているし七十七人がけがをしている。

チリ学生の政治思想は反米・反資本主義という傾向があるし、それはヨーロッパの一部の学生も同じである。反米を反保守主義という言葉に置き換えればアメリカの学生でさえもそういう傾向はあるだろう。チリの過激派学生の場合はその傾向がつよいが、それは彼等が独裁政治やそのために殺された人々の話を聞きながら育っている事を考えると自然な事でさえある。その上、チリ政府は資本主義の政策をほぼ踏襲しているし、基本的に親米的態度は捨ててない。こういった歴史的・社会的背景を考えると彼等がデモや暴動に走る理由が見えてくる。一九九〇年にピノチェ大統領が引退するとともに廃止されたが、それまでは九月十一日はクーデターを記念して国民の祝日だった。そんな日には自分達の怒りを表現し政治的主張をしないと熱い血が収まらないのだろう。

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