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本エッセイは、株式会社ジェーシー・コミュニケーション代表の山本が、世界で体験してきた国際交流のエッセイ集です。49ヶ国/9年分の旅行や海外在住体験がつまってます。

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終章 パリ


私は今パリに住んでいる。パリで心地よい歴史の香りに包まれながら暮らしている。エクアドールでのボランティアが終わった後そのままフランスへ移り働き始めたのだが、二年ぶりに戻って来た先進国は何となくほっとする物があった。労働許可証はワーキングホリデービザを利用してすぐに取得出来たし、仕事も比較的簡単に見つかった。パリは八年前に一度旅行で訪れていたがそれでもここに住みだすとこの街の良さが隅ずみまで見えてきたし新鮮に映った。この街にはあきれるほど歴史が詰まっている。古い建物が大半を占め、またそれが世界に類の無いハーモニーを生み出している。

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パリは地下鉄網が発達しているのだが、どうしてもバスを使いたくなる。仕事へ行くのもアパートへ帰ってくるのもバスである。ラッシュアワーの時は地下鉄の方が早いのだが、それでもバスを使うし、特にパリに住み始めた当初はディズニーランドの子供のようにこの街を楽しんでいた。使うのは九十二番線である。早朝、仕事へ行く時に使うこのバスはモンパルナスというパリで一番高いビルの付け根から出発するが、十分もするとナポレオンの遺骸が納められている廃兵院が見えてくる。金色に光る廃兵院のドームを眺め、軍事学校を通り過ぎ、そのままの行くとセーヌ川に着く。真っ赤な東の空と朝日が差す川岸を眺めながら川を渡ると、橋の下にセーヌ川に沿って走る道がある。ダイアナ妃が交通事故で死んだのはここである。何も変わった所がない普通の橋だが、今ではアメリカの会社が贈った松明の彫刻(フランスから送られたニューヨークにある自由の女神が掲げている松明のレプリカ)が一九九七年の夏に起こった悲劇を思い起こさせる唯一の手がかりになっている。金色に光る彫刻を通りすぎると凱旋門まで十分もかからない。凱旋門はちょっとした丘の頂上に立っており、ここでも朝日がクリーム色の凱旋門を美しい薄い桃色に染めている。凱旋門からは職場までは十五分くらいで着く。

九十四番線も使う。同じモンパルナスから出発するこのバスは、まず左岸(パリのセーヌ川の南側をこう呼ぶ)を真っ二つに横切るような形で北に向かう。国会議事堂を左手に見ながらセーヌ川を渡ると、フランス革命の時にルイ十六世が首を刎ねられたコンコルド広場に着く。真ん中にはエジプトから送られた三千三百年の歴史を持つオベリスクが立っている。左手にはシャンゼリゼ通りが一直線に伸びており、その終わりに凱旋門が立っているのが見える。右手にはテュイルリー公園とその向こうにルーブル美術館をのぞく事ができる。テュイルリー公園の側のコンコルド広場にはルイ十六世が殺された後にギロチンが据え付けられ、マリー・アントワネットを含む一三四三人が殺されたという。コンコルド広場を北に過ぎるとプランタンデパートやサンラザール駅のそばを通りながら職場へ向かう。

ある日いつもどおりバスに乗って外の景色を楽しんでいると、ある停留所でバスが止まり子供の団体が乗り込んできた。小学校に入学する前後の子供達が十人くらいと引率の保母さんらしき人が二人一緒にいた。時間も場所も覚えていないが、子供達の頬に射す心地よさそうな日光だけが印象に残っている。みんな楽しそうに笑っており、バスの中の空気が急に明るくなった。チリでやっていた孤児とのボランティアでは子供達を引率してバスに乗るというのはしょっちゅうだったので懐かしい思いに包まれた。子供というのは常に遊びを創造する。公衆電話で遊び、道に落ちている空き缶で遊び、またそうでない時は喧嘩を始めたりする。常に目を光らせる必要があり、特にバスが来た時は全員バスに乗り込もうとしているか子供達に目を配らなければいけない。そういったチリでの日々が脳裏に新鮮によみがえり、目の前にいた子供達が妙に身近に感じられた。

そして彼等は満ち足りた笑顔をしていた。幸せを満面に表現した笑顔だった。心地よい日光のせいかもしれないし、先進国の子供達だという先入観がそう感じさせるのかもしれない。そして彼等の表情が明るいほどアフリカや南米の貧しい子供達が脳裏に浮かんで離れなかった。

人間というものは不平等な生き物である。本質的に不平等である。世界にはアフリカの子供のように生後三日目で死ぬような人間もいるし、コロンビアのストリートチルドレンのようにほとんど家から追い出されるような目にあい一人で生きていかなければいけない人間もいる。チリの孤児も似たようなものである。反対に先進国の子供のように、生まれて一度も腹をすかした事のない人間もいる。彼等は十分な教育を受けることができ、美味しい食事と温かい家庭の愛情に囲まれて健やかに育っていく事が出来る。また生まれた社会の発展度合いによって収入がほぼ決定されてしまうという事実もある。そしてこの国によっての収入の違いは個人の能力や努力ではどうしようもない。ウオークマンの工場でネジを絞める仕事でもマクドナルドで肉をひっくり返す仕事でも途上国における小作農ほどの労力と能力を必要とする事はないし、かといって小作農の収入がいいということはありえない。

そして逆説的ではあるが、この人間の不平等性を今明るい気持ちで捉えている。人間という生き物が平等でないというのは真であるにしても、お金や食べ物の量の不平等さというのは必ずしも幸せを感じる能力と一致しているわけではない。例え貧乏でも、物質的には不幸な人でも、人生を楽しむ感受性や自他に対する愛情を豊富に持っている人は大勢いる。例え貧しい社会に生まれても家族の愛情を感じながら生きていく事は出来るし、豊かな社会に育っても友達のいない人や家族との絆を感じる事の出来ない人はたくさんいる。エクアドールのモンタニータであったアルテサノ達の収入は先進国の平均収入の数分の一だろう。しかし彼等が日々満喫している太陽と海と自由の素晴らしさを考えると、彼等の人生は先進国のどのお金持ちの生活と比べても引けを取らない。どちらが良くて悪いかを論じる必要はなく、様々な視点から物事を見つめれば人間社会の不平等性というのは思ったより酷くない。

ある日チリ人の友達とモンマルトルの丘のふもとにあるバーでビールを飲んでいた。彼はロンドンで働いており、この週末だけパリに私を訪ねて来ていた。この辺りはストリップショーを始めとするセックスビジネスが多い雑多な街ではあるが、それと同時に丘をちょっと登ると粋なカフェや住宅街が広がっているカラフルな街である。我々がチリ時代の思い出話に花を咲かせていると、ある客が入ってきて我々の近くに席を取った。入ってくるなり英語でバーテンダーに注文していたところを見ると観光客に違いなかった。すこしでもフランスに住んでいるなら酒の一つや二つはフランス語で注文できる。

彼の顔は変形こそしていなかったものの全面に火傷のあとがあった。薄暗いバーの中でも見えるのだから明るい所ではもっと酷く見えるだろう。一人で酒を飲んでも旨いはずがなく、彼はフランスにいるというのに英語で周りの客にしきりに話しかけては友達を作ろうとしていた。かといって軽い人間というわけではなく、彼の優しさと好奇心がこっちにも伝わって来る。私もその話しかけられた一人で、彼がバーテンダーに聞きたがっていた酒の種類について簡単に通訳をしてくれと頼まれた。私はフランス語はあまり喋れないのだが、まったく喋れない彼にとってはそんな事は関係なく、またせっかく頼まれた事をつっけんどんに断りたくなかったので一応通訳を試みた。通訳の内容はたいした事なかったが、これをきっかけに彼との会話が始まった。

彼の生まれはニューオリンズ。しかし今住んでいるのはテキサス州の州都になるオースティンである。彼はアメリカ空軍のパイロットだった。正確に言うと今でもそうである。戦闘機や爆撃機に飛行中に燃料補給するための空中給油機があるが、彼はこの飛行機を操縦していた。そして二年半前に事故があった。この事故のために一緒に操縦していたパイロットは死亡し、彼自身も顔を含む体の大部分に火傷を負った。原因は整備不良だったらしい。幸いにしてテキサスには全米で最高レベルの火傷治療の医療施設があり、彼はすぐそこに担ぎ込まれた。手術を受けること二十三回。今ではもう自由に動けるようになったがそれでもリハビリは続いている。しかし一番つらかったのはけがや治療そのものではなかったという。重度の火傷を負った彼は最初からモルヒネを痛み止めとして打たれていた。それも一度や二度ではなく火傷や手術からある程度回復するまで続けられ、容態が一段落した時には彼は立派な麻薬中毒患者になっていた。実際医療目的でモルヒネ投与を受けた患者の約十パーセントは中毒状態から抜けきれず、けがが完治した後も自分で麻薬を打ちつづけるという。彼の場合もモルヒネの投与を止められてからは地獄を見たらしい。あまりの苦しみのために一週間というもの間ずっとベッドの上でうずくまっているしかなかったと言う。右手の指は人差し指と中指を除いてすべてなくなっており、またその二本も異様に短くまた奇妙な形をしている。よく聞くとその指は右足の指を切断して移植したものらしい。医者にくっつけられたその指は神経まできちんとつなげてあるらしく多少ぎこちないとはいえ自分で意識的に動かす事が可能だった。

しかし一番の驚きは火傷の酷さではなく彼の前向きさと明るさだった。前述の通りアメリカ人というのは人口が多い割にはあまり外国を旅行している人を見かけるのは多くない。そんな中で彼は一人で、フランス語を一言も喋らず、足の指のついた手と焼きただれた顔で旅行していた。バーでは周りの人に話しかけて少しでもフランスを知ろうとしていた。飛行機事故の話も手足の障害の話もまるで昨日の昼飯の話をしているように語り全く悲壮感が見られなかった。

別に悪意をもって言うわけではないが彼は不幸な人間である。火傷の痕をじろじろ見られながら旅行したり足の指で生活したりする事を考えると途上国の貧乏な家に生まれるのと負けず劣らず不幸だと言わざるを得ない。しかし彼の前向きな姿と一つしかない人生を謳歌しようとしている姿勢は感動的でさえある。この人生を謳歌する感受性と能力こそが不平等な人間社会に一条の光を発している。

今は旅行中だが彼はテキサスに帰ると飛行テストが待っているらしい。今でも飛行機の操縦は出来るのだが軍用機のように高いスキルを要求される飛行に関しては特別なテストに合格しないと飛ばせてもらえない。そのテストに合格するとまたパイロットの職務に戻れるが、落ちると引退せざるをえない。それでも彼はそのテストにプレッシャーを感じているわけでもなく、自然な姿勢で臨んでいた。

「もしこのテストに落ちたら、セスナ機のようにもっとちいさな飛行機で空を飛ぶだけの話さ。」

そう、彼は空が大好きなのである。例え大火傷を負っても空を楽しむ事が出来れば幸せになれる。にんげんというものは自分の目の前にある物に価値を見いだせれば誰でも幸せになれる。頭上に広がる蒼い空だけは全てのにんげんに平等に与えられている。そしてその蒼のよさが分かるか分からないかは各個人の問題でしかなく、人間社会の不平等性が入り込む余地はない。

別れ際に彼の名前を聞いた。ビルという名前だった。バーを出ると夜のパリが広がっており、私の心には心地よい会話の余韻が響いていた。

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