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本エッセイは、株式会社ジェーシー・コミュニケーション代表の山本が、世界で体験してきた国際交流のエッセイ集です。49ヶ国/9年分の旅行や海外在住体験がつまってます。

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第三章 バックパッキングⅠ

クスコ所感:歴史と近代観光の交差点として


この日はクスコ行きのバスの乗り継ぎが上手くいかず、暇そうな両替屋達を後にバスが発車したのは夕方近くなっていた。クスコに着いたのは次の日の朝だった。妙に肌寒かった。標高三五〇〇メートルにあるのだが、ラパス(標高三六〇〇メートル)やウユニ塩湖のツアーで体が慣れているせいか高山病にはならなかった。名所は中心部に集まっており徒歩で見て回れるという点で観光しやすい町だった。クスコは歴史を感じさせる町で広場には古い教会がそびえているし、それを囲んでいる建物も植民地時代の雰囲気を持っていた。また建物の基部を良く見るとインカ時代の優れた石工基礎をそのまま利用している部分もあり、ヨーロッパのコロニアル風の建物とインカ時代の落着いた精密石工が交じり合った不思議な趣が街に漂っていた。

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ここはインカ帝国の首都であったのだが、一五五三年にスペインの征服者ピサロが侵略した時に破壊し尽くされた。いま残っているのは当時の建物や神殿などの土台ぐらいである。侵略者が来た時、古今東西の歴史の例に洩れず彼等はものすごい略奪をしている。金銀財宝は本国に送られ、その量のために一時スペインとヨーロッパがインフレを起こしたほどであるらしい。興味深いのは、侵略者達はインカの神殿を破壊してその上に教会を建てている。太陽の神殿というインカ時代の宗教拠点があったのだが、その場所にサント・ドミンゴ教会が建てられている。この太陽の神殿というのはコリカンチャ(黄金の居所という意味)という別名を持っていたくらいなので、ここにあった金銀の量は想像がつくだろう。サント・ドミンゴ教会に行ってみるとその敷地の中に当時をしのばせる太陽の神殿の跡が残っている。ここも粘土で作り上げられたかのような緻密な接触面で組み合わさった石組が残っている。有名な話だが、その後クスコは大きな地震に二、三度襲われたがインカの石組はびくともせず残ったのに対して、ヨーロッパ人が建てた教会は崩壊してしまったという。

侵略者というものは、新参者である自分達の力を誇示するためか、それとも他宗教に対する宗教的嫌悪感のためか、必ず既存の宗教的建築物を破壊するか自分達のために改築している。スペイン南部にあるメスキータという教会はローマ神殿から始まり、教会になり、そのあとイスラム教徒にモスクにされ、最後にまた教会になるという、時の権力者により何度もその姿を変えた歴史を持っている。イスタンブールのアヤ・ソフィアも似たようなもので、ギリシャ神殿から始まり、キリスト教会になり、モスクになり、現在は博物館として利用されている。征服者が今までの遺産は保存しておいて、自分達の建物は別に建築するという事をやっていたら世界中の歴史都市の景観はだいぶん変わっていただろう。

メスキータやアヤ・ソフィアに最初につくられたローマ神殿やギリシャ神殿の跡は土台さえ残ってない。クスコにおける太陽の神殿以上に破壊されたのだろう。後世の我々にとってはイスラム教とキリスト教が交わっている姿やインカ神殿跡に教会がある姿は人類交流の証を見ているようで興味深い。しかし自分達の神殿を破壊された方としてはたまったものではないだろう。特に新大陸におけるヨーロッパ殖民者の非道は比較的時代も新しく記録もされているので我々の目に留まる事も多い。

非西洋諸国は日本を含む一部の例外を除き殆どが西洋諸国に植民地化されている。植民地化するプロセスにおける暴力的な軍事行動や搾取的な植民地政策のせいで彼等は大体殖民地された事に否定的な感情を抱いている。ただ南米ではその元宗主国であるスペインやポルトガルに対する否定的な感情は概して薄い、もしくは複雑である。スペイン語にコンキスタドール(Conquistador)という言葉がある。征服者という意味なのだが通常はヨーロッパからやって来てラテンアメリカを征服したスペイン人を指す。クスコを破壊したピサロもその代表的な存在である。しかしこの南米でコンキスタドールという言葉にはあまり否定的な語感がない。というのも侵略されたはずの南米人はその後スペイン人をはじめとする殖民者と混血を繰り返し、メスチーソという別の人種グループを構成するようになっているからである。言い換えると彼等の祖先の一部はヨーロッパ人であり、南米の現地文化を踏みにじったコンキスタドールである。そういう意味では太陽の神殿の遺跡を見てもこれを本当の意味で悲しむ人は少なくなっているのかもしれず、きれいに積み上がった石を見ていると死んでしまった文明の遺骸を見ているようで寂しさがにじみ出ていた。

バックパッカーというのは殆どがヨーロッパ人である。その中でもドイツ人が多い。これは彼等が八千二百万というヨーロッパで最大の人口を誇っているからであろうが、逆に三億近い人口を誇るアメリカは情けないくらいにバックパッカーは少ない。北米アクセントの英語を喋るバックパッカーの殆どがカナダ人である。逆に少ない人口の割には多く旅しているのは北欧系の国である。オランダ人も流暢な英語を駆使しながら旅しているのをよく見かける。南欧系の人は殆んど見かけない。そして、それ以外にバックパッキングをよくやっているのはイスラエル人である。

クスコで再会したバックパッカーの友達もイスラエル人だった。イスラエル人バックパッカーは集団で旅行する傾向にあるのだが、ロイというそのイスラエル人は一人で旅していた。彼と最初に会ったのはラパスの宿だったがその時は何度か会話した程度だった。バックパックパッカーというのは国境を股に掛けて移動する割には似たような所を旅行し、似たような仲間と情報交換し、似たような宿に泊まる。だからある国で知り合った友達と偶然別の国で再会するというのは良くある。今回もクスコの道を歩いていると偶然ロイと再会した。彼はトムクルーズに似て美形なのだが、伸ばし放題の髭がそのさわやかさを台無しにしていた。

その日の夜は彼とは再会を祝って一緒に夕食を食った。といっても別に豪勢な食事をしたわけではなく薄暗い中華料理屋でビールと炒め物をつついた程度だった。彼からは色々な事を教えてもらった。ユダヤ人はお金持ちだというステレオタイプとは反対に信心深いイスラエル人は貧乏である場合が多い事、イスラエル人の大半は若いうちに一度はバックパックの旅行に出る事、その旅行のグループは徴兵で同じだった兵隊仲間でやる場合がある事など、未知の国イスラエルに対する想像を掻き立てる話ばかりだった。そして私も彼もカミノ・インカと呼ばれるトレッキングに参加しようとしている事を発見し、一緒にやることにした。このトレッキングというのはクスコとマチュピチュを結ぶインカ時代の小道をキャンプしながら踏破するというもので、ペルーでバックパッキングした人は必ずやるというくらい人気がある。三泊四日でアンデスの山中を歩くこのトレッキングは確かに肉体的にきつい行程ではあるが健康的な若者だったら通常問題なくやれる。またクスコにはこのトレッキングを斡旋する現地旅行業者がいくつもあり、お金を払えばあとはテントから食事まですべて彼等が用意してくれる。その人気と容易さのため参加者は多く、旅行業者だけでも数え切れないくらいあった。

二、三日後に私とロイは同じ旅行業者に申し込んだ。いくつかの業者の値段を調べたがあまり変わらなかった。出発は次の日だった。初日は途中までマイクロバスで行き、昼くらいからトレッキングが始まる。我々のグループは私を除き全員がヨーロッパ国籍で、ドイツ・オランダ・イギリス・フランス・スウェーデンなどから来ていた。全部で十五人くらいだったと思う。我々にはガイド一人と五、六人のポーターが付いた。彼等は我々のテント・食料・調理器具など全部運んでいたし、中には調理用の小さいプロパンガスを運んでいるのもいた。彼等はクスコで雇われているわけではなく、最初にバスで移動する途中にある村から来ていた。

初日の半分はバス移動だったのでトレッキングも楽だった。ただ小ぶりの雨がふったので体が濡れてとても寒かったのを覚えている。食事は全部ポーターが作るので私達はそれを待って食べるだけでよかった。皿洗いも彼等がやる。昼食は道端にあった芝生の上で食べたが、夜は農家の庭先のようなところだった。テントもそこに張った。日が暮れると何もやる事がないのでポーター達を訪ねてみると、彼等も仕事が一段楽してみんなで地酒を飲んでいた。彼等は農家の物置のような所で我々の食事を作り、寝泊りし、酒を酌み交わしていた。着ているシャツの色は剥げ落ちており、日焼けした頬からは蝋燭の光が反射していた。踏み固められた地面は埃こそ立たないが別にむしろが敷かれているわけでもなく、立っているのもいれば、ずだぶくろを丸めて座っているのもいた。彼等からは酒を勧められ、勧められるがままに飲み、溢れ出した好奇心に身を任せたままいろんな事を聞いた。冷え切った体を強い地酒が暖めていた。

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